魔法修行者 [言語・記号]
最近読んだ幸田露伴の秀逸な短編集、『幻談・観画談』は、
その幻想的な内容も素晴らしいのだけれども、
まず、きわめて洗練されたその流れるような日本語の美しさ、
語彙の豊富さ、格調の高さに、唸らされる。
そもそもどうしてこれを読もうと思ったかといえば、
そこに収録されている作品のタイトルが秀逸だったから、
というのがその理由の8割くらいかもしれない。
中でも私が気に入ったのは、「魔法修行者」というタイトル。
露伴作品には、ほかにも、「幽情記」、「連環記」など
幻想的で美しいイメージを喚起するような、不思議なタイトルが多いのだけれども
これは、幸田露伴=「五重塔」、という、文学史的・教科書的な知識しかない人からすれば
結構意外だったりするかも。
だいたい、私が好きな小説というのは、まず間違いなく
そのタイトルも秀逸なのであって
逆に、タイトルがピンとこないと、読む気にならない。
そして、以下の書き出しも見事すぎて、いきなりグッと引き込まれる。
魔法とは、まあ何という笑わしい言葉であろう。
しかし如何なる国の何時の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。
埃及、印度、支那、阿剌比亜、波斯、皆魔法の問屋たる国々だ。
真面目に魔法を取扱って見たらば如何であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき廉(かど)も多いであろう。伝説研究の中(うち)に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種々の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。
(幸田露伴 「魔法修行者」)
また、以下の文章には、奈良・平安という時代の空気が見事に凝縮されている。
奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、法力が尊いものであるかを語っている。この時代の人々は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門が乱を起しても護摩を焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃は蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛くも活きていたのである。
生霊、死霊、のろい、陰陽師の術、巫覡の言、方位、祈祷、物の怪、転生、邪魅、因果、怪異、動物の超常力、何でも彼でも低頭してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての今昔、宇治、著聞集等の雑書に就いて窺ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。
(幸田露伴 「魔法修行者」)
魔法、魔術、呪術、転生、、
なんと妖しくも魅力的なことばだろう。
そしてそれは私だけではなくて
恐らくは人類が文化を持ち始めた頃から、
多くの人間を魅了し続けてきたに違いないのである。
その魅力ってなんなのか、ということも突き詰めたいところだけれども
これを読んでいちばんハッとさせられたのが、
「おまじない」、ということばについて。
というのは、
日本語でいう魔法、魔術、呪術、これらは全てある種の「まじない」であって
その動詞形は「まじなう」だけれども、この「まじない」を
英語でいうと "magic"、
フランス語では "magie"、
イタリア語で "magico"、
ドイツ語でも "Magie"、
であり、驚くべきことに、いずれも「まじ」という音が入っているのである。
これには初めて気がついた。
我邦での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝(まじない)の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭をまじないやむると訓んでいるのは古いことだ。神代から存したのである。
(幸田露伴 「魔法修行者」)
などと、露伴はさらりと書いているけれども(「ゼンド」ってなんだろ?)、
私にとっては、これはさらりと流すわけにはいかない興味深いことで
単純に西洋から日本にmagicという言葉が音として伝わったのか、
それとも、世界的に、普遍的に、同じ音なのか。。
同じような例を挙げると、これは確か司馬遼太郎が指摘していたと思うけれど、
キリスト教でいう「アーメン」という言葉。
これは、インド諸宗教において神聖視される呪文「オウム(Om/Aum)」、
更には日本でいう「阿吽」と非常に類似しており、
それらは意味内容においても本来同じものであろうと言われている。
これも、どれかが語源で、あとは単純にそれが伝播していったのか。
或いは、人間にとってこの音が普遍的な意味を持つのか。
前者である可能性は高いような気はするけれども、
いずれにせよ、宗教の違いを超えて、
同じような音が同じような意味合いで使われているというのは、
やはり興味深い。
なにかある、と思ってしまう。
それだけ、この音、或いはこの言葉が当時の宗教者の間では
極めて重要なものだった、であろうことはまず間違いないけれども
ではどういった意味合いで、それは重要だったのか。。
それは恐らく、現代の我々からは想像も理解もできないような
当時の彼らの世界観や社会システム、文化などに基づくものなのだろうし
或いは、それは既に失われているが故に、現代では知り得ないのなのかもしれない。
例えば、仏教が日本に伝わってきた時点での日本の社会状況や、
日本人の生活、文化、思想などについて、どれだけの史料が残されているのだろう。
... なんてことを考えていると、古代社会や宗教儀礼などのイメージがわいてきて、
全身が総毛立つような、妙にぞわぞわするような興奮を感じる。
このテーマに関しては、今後もっと調べていきたい気もする。
ちなみに、冒頭の画像は、晴明の母親といわれる、
葛乃葉の像。
あまりにも日本的な清冽さに満ち、凄みすら感じさせる、
本当に美しい日本画。
すぐわかる日本の呪術の歴史―呪術が日本の政治・社会を動かしていた
- 作者:
- 出版社/メーカー: 東京美術
- 発売日: 2001/10
- メディア: 単行本
2011-06-26 21:18
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