ルーと、ぎょうざと、粋であること [文学・思想]
ユリイカ 2014年1月号 ルー・リード特集を遅ればせながら入手。
大江慎也が寄稿してるということで、そんなの珍しいから
そのうち買おうと思っていて、いつのまにか忘れていたけど
最近、大江だけでなく、町田康の文章が載ってるというのを知って
即、買った。
大江慎也と町田康の文章が同じ雑誌に載ってるなんて、奇跡みたいなもの。
80年代の日本のロック事情を知っているものとしては、泣けてくるものすらあったり。
町田は20歳のときに初めてルーの BLUE MASK を聴き、
それを当時のバイト先の、ごみを埋め立ててできた人工島で
誰もひとがいないのを幸いに、拡声器にラジカセをつないで大音量でかけてたんだそうな。
悪臭とメタンガスの漂う、だれもいない深夜のゴミの島
鳴り響くルー・リードのブルー・マスク。
なんという映画的で、美しいイメージ。。
でも相方の警備員のじいさんに文句を言われてやめたらしい。
いろんな人が大真面目に、或いは思い入れたっぷりに
ルーについて語っているなかで 彼が書いていた
大阪のスーパーマーケットに行くと、「ルーちゃんぎょうざ」という餃子が売ってるが
「このルーは、ルー・リードのルーなんだよ」と主張し、議論に負けてきた
には爆笑。 そりゃ負けるでしょ。
しかし
私は、ルーちゃんぎょうざ、という言葉が頭に浮かぶたびにルー・リードのことを思い出す、 その逆はない。あたりまえのことだ。
というのには、グッとくるものが。
わらかしたあとに、なかすなんて。 ね。
ところで私は最近、澁澤の『洞窟の偶像』を読んでいるのだけれど
その中にあったことば。
つまらないことを大げさに語り、重大なことを軽く片付ける、― まあ、これは洋の東西を問わず、粋であることの要諦でもあろうが、ビアズレーはこの間の呼吸をも十分心得ているように思われる。
(澁澤龍彦 「オーブリ・ビアズレーについて」、『洞窟の偶像』)
私は、粋ということはどういうことなのか、いろんな粋な人から学んで
澁澤もそのひとりなんだけれど、
これを読んで、それを改めて思い出した。
つまり思い入れがたっぷりとあるものを、思い入れたっぷりに語るなんてことより
それをむしろ、くらだないことと結び付けて、ひとつの笑い話のように料理してしまう、
そんなルーちゃんぎょうざについての町田の文章の方が、この上なく粋で
このユリイカの中で、いちばん光っていた。
ルー・リードファンというのは、ロックというものに対して真剣に対峙し、
しかも結構なインテリだったりする人が多くて、
飲みながらロックについて語り始めたら、
結構面倒くさいことになることが多い気がするけれど
ユリイカとか読んでる人も、たぶん結構いる。
でも彼らの中で、このユリイカを読んで、上のような町田のすごさに気づいた人は、
はたしてどれだけいるのかなー。
あと思い出したのは、例えば
澁澤が亡くなったとき、金子国義はその棺を担ぎながら、
ずいぶん重いね、2人入ってんじゃないの?と軽口を叩いたらしいということは
以前の記事でも書いたことがあるけれども
本当は死ぬほど悲しいんだろうに、こういうことが言えるのが、
粋だということなんだね。
重大なことにはあまりにも重大に取り組み、
大騒ぎするようなことでもないことに、炎上したり
くだらないことを、そのまんまくだらないと受け止めて、
面白く広げようともしない
最近日本のニュースを見ていると、世の中そういう人ばっかりなんだな、
と。 なんだかねー。
人生ってのは、「おまえの考え一つで、どうにでもなるさ」(JAGATARA / みちくさ)
ってことなんだよ。 たぶん。
では私にとってルー・リードはといえば、まあ、既に他の記事で書いたので
今更書くのもなんだけど
19歳の私の中で、「カッコイイ」の基準となった人の一人。
それは今でも間違ってないと思うし
そのときから私にとって世界は広く、深くなって、妖しい光を放ち始め
人生は面白くなったんだ
だから、ルーに関しては、ただ、ありがとうと言いたい。
2014-02-09 21:35
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