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それから。 [文学・思想]

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「代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼は此の嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。其の過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這い纏っていた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡てが幸(ブリス)であつた。だから凡てが美しかつた。」
(夏目漱石 『それから』)



最初に結論を言ってしまえば、漱石の「それから」、
これは名作です。
私が言うのも今更ですが。


ある時点で、止まってしまった時。
それ以後、凝固してしまった時、そして代助の生。

しかし、代助が三千代への愛を自覚したとき、代助の中で、何かが動き出す兆候を見せ始め、
その愛を貫く決心を固めたとき、止まっていた時が、動き始める。
それまで氷結していた何かが、堰を切ったかのように、迸りはじめる。
そして、物語は、急展開を見せていく。
そのダイナミズムが、この作品を読んでいて、最も感銘を受けたところ、でしょうか。

そのへんのところを、漱石は、高級料亭の熟練した料理人が
懐石コースを仕上げていくように、実に緻密に、丁寧に描いていく。
実に日本的な、抑えた筆致で。
決して派手な部分も、奇を衒うような部分もなく、いきなりガツンとやられるようなことはないけれど、
じわりじわりと、こちらのこころに響いてきて、いつか柔らかな手で、そのこころを掴まれてしまっているのでした。

とくに三千代さんの気持ちの微かな揺れが、本当に繊細過ぎて、
読んでいて痛々しいくらいで。
この二人のやりとりには、なぜか川端の「雪国」に近いものを感じました。

前半を読んでいて結構退屈しがちだった私は、以後いつのまにか、その作品の中に引き寄せられ、
特に冒頭の場面以後、気が付けば文字通り寝食を忘れて夢中になっていたのでした。


代助の生には、全く実在感がない。
代助と対比されて描かれている平岡や寺尾、代助の家族のように、実社会の中で必死になって生きている人たちと比べると、一見悠々自適な、安穏としたそれであるかのように描かれていますが、そこには生きているんだ、という充実感がない。
それは冒頭の、代助が、自分が生きていることを確認するかのように心臓の音を確認する場面に、既に予告されている。
その実在感の無さは、例えば「タクシードライバー」におけるような、理由もわからずただ世界内に投げ出されているかのようなそれではなく、はっきりと理由のあるもの。
しかし、彼はそれを自覚していない。或いは抑圧している。

それを自覚したときに、世界は動き始め、物語は一気に、悲劇へと駆け抜けてゆく。
「自然の昔に」帰った代助は、三千代以外の世界の全てを、敵に回すことになる。

世間的な縛りの中で生きることは自分という人間の意志に背くことになるけれど、
それとは逆に自然のまま生きることは、必然的に悲劇を生むものなのでしょうか。

そうかもしれません。考えさせられます。

そして狂気の漲る鬼気迫るラスト、それまで実在感のなかった世界は、代助の前で、沸騰する。

これは世界の崩壊でしょうか?

私は寧ろそこに、世界が強烈なリアリティを伴って迫ってきた、つまり、
代助と世界との戦闘開始を見る思いがしました。
その意味で、この作品は「それから」なのでは、と思います。

この作品、ストーリーはとてもシンプルで、要するに男女の三角関係、或いは姦通小説、
というごくありふれたものであるし、
また、高等遊民と社会との価値観における対立、といったものでもいい。

しかし、ここには、そういったものと同時に、重層的に、人間の恐ろしい面、或いは人間の生における深淵が描かれている。

それは、心にぽっかりと穴があき、その生に対する実在感を失った状態と、
それに対する無自覚でいる人間、そしてそれを囲む人間たちの、いつ牙をむいてこちらに襲いかかってくるかわからない、その恐ろしさ。
そんな生の実在感も人間らしさも失った人間が、人間らしさを取り戻す過程を実に巧みに、丁寧に描いた作品、といえるのではないでしょうか。
内容からすればありふれたメロドラマになってもおかしくないのに、全くそうはなっていないのは、そのような哲学性と、確固とした結構のおかげではないでしょうか。


ところで、読んでいて気になったのが、百合の花の芳香、という小道具の使い方。
それが何度も出てきて、ややもすればかなり平板になりがちな流れに変化と奥行きを与えており、
とても効果的。そして象徴的。

香りというのは、それだけでも十分に、とても官能的なもの。
これだけ匂いたつような芳香を感じさせる文学作品もあまり記憶にないですね。

官能=「自然な生き方」の象徴かもしれません。

「代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。」

つまり、香りの中に自己を放擲すること=自然な生き方に戻ること、
として描かれているわけで、その香りとは、
自然に生きていた昔の微かな記憶と、現在の実在感のない生をつなぐ
唯一の架け橋だった、のかも。
「失われた時..」を持ち出すまでもなく、香りとは、記憶と強く結びついているものでもあります。



私は以前何度か映画版のほうを見ていて、原作を読んだのはこれが初めてですが
代助の描写を読むと松田優作、三千代さんは藤谷美和子、平岡は小林薫、
の顔がそれぞれ浮かんでしまって。
まあ、それはよかったのか、悪かったのか、わかりませんが。
でも、あまりそれら双方に、大きな差異は感じないというか、それほど違和感はないというか。

初めて見たとき、当時まだ十代だった私はたいへん衝撃を受けました。
以来、3回くらい見ているけれど、何度見ても、やはり、本当に美しい映画。

とてもつくりが丁寧で繊細なところも、出演者の演技も、抑えた演出も素晴らしい。
そして、三千代さん役は、やはり藤谷美和子さん以外はありえなかったでしょうね。

ただ、このDVDのパッケージはいかがなものか。。
("and then" って。。)

VHS版の方が遥かに良い。
少なくとも、藤谷美和子さんの写真を使って欲しかった。







それから (岩波文庫)

それから (岩波文庫)

  • 作者: 夏目 漱石
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/11
  • メディア: 文庫



タクシードライバー コレクターズ・エディション

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  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテイメント
  • メディア: DVD



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