本日のお題:白熱教室・ロゴス・ソフィア(2) [ひとり妄想対話篇]
- (おんな編集者A) 先生、それでは今日は、先日のお話の続きをお願いしたんですが。
- (先生B) うん、サンデル教授のいう議論を、「ロゴス」と「ソフィア」という観点から捉えなおす、という話だったね。
- はい、ええと、ロゴスというのは理性、ソフィアは感性、或いは叡智ですよね。
- まあ、教科書的に言えば、そうかな。
- でも、どちらかといえば、ロゴスとパトス、という言い方の方が、一般的な気がしますが。
- そうだね。 例えば、ソシュール研究の大家、丸山圭三郎先生なんかも、その著書の中で触れられており、非常に面白いんだが、今私が言いたいこととは違うから、とりあえず措こう。
ロゴスとソフィアについては、私もあまり考えたことはなかったんだが、最近読んだ高橋巌氏の『神秘学講義』という本の中に、なかなか面白いことが書いてあるのを見つけたんだ。
- といいますと?
- うん、つまりだね、ロゴスというのは理性、或いは合理主義精神と言われ、通常、学問というのはロゴスを前提としている。これは、彼によれば、例えばAとBとの違いを明確にする、或いはAとBとでどちらが優れているかを判定するということなんだ。そして、優劣を判定する精神とは、批判精神であり、批判ができる人間が、一人前の市民である、と。
- つまり。。 サンデル先生のやっていることは、学問だし、議論をしよう、ということだから、理性の世界でしょう、だから、議論とはまさにロゴスなんですね。
- いや、そうとも限らなくて、じゃあソフィアとは何かといえば、高橋氏によれば、融合の精神なんだ。
つまり、異質のものを二つ並べて、これとこれとは違う、ということを明確にするのがロゴスであるとすると、こういう観点に立てば、これらは結びつく、或いは融合させることができる、と考えるのが、ソフィア的ということだ。
- 批判精神と、融合の精神ですか。。 うーん。。
- そうだな、ええと、サンデル教授の言っているのは、基本的には、みんなで健全な議論をして、よりよい社会を作っていこう、ということだが、ここで言う議論とは、自分の主張を貫き、相手を打ち負かすことだと思うかい?
- うーん、それだと、先日のお話のように、結局議論のうまい人の意見が通るだけで、健全とも思えないですよね。。
- そうだね。
- でも、議論をすることによって、例えば何かを決めるんだとすれば、誰かの意見が通って、それ以外は却下されるとか、少数派になるというのは、避けられないのではありませんか?
- いや、それは結果であって、一面的な見方にすぎない。 つまり、議論をして、お互いの意見をぶつけ合うことで、自分とは違う意見を聞く。それを通して、自分の考えを再検討する。それを修正し、また、高めていく。
彼の言っている議論とは、それなんじゃないか、と私は思うんだ。つまり、自分の主張を押し通すのではなくて、変質させること。 これは、相手の言うことと自分の主張を融合させる、ソフィア的な行為だね。
そして、各人がそういうことを繰り返して、言ってみれば、共同体における共通善のようなものを一緒に築き上げていく、そして、最終的に、議論の結果として、お互いに納得のいくような合意に達することが出来れば、理想的だね。
まあ、理想論の誹りは免れないかもしれないが、そういった弁証法的な、まあ、平たく言えば、凝り固まった部分をほぐして、お互いに切磋琢磨していこう、ということが、彼の言う「健全な」議論、ということなんじゃないかな。
- なるほど、そういわれてみると、議論は必ずしもロゴス的ではなくて、むしろソフィア的であることが大事なんですね。
- 彼が直接そう言っているかどうかは知らないが、私は、そう思う。
たとえば、Aという人がひとつの世界観を代表し、Bという人が別の世界観を代表しているとして、AとBとが議論をはじめたとする。 そこで、ロゴス的な議論を展開したとすれば、自分と相手とはここが違う、ということに終始し、どちらがより優れているか、ということを主張して、相手を打ち負かすことが目的になってしまう。
しかし、ソフィア的な立場から話し合えば、どちらが相手をよりよく理解したか、ということが問題になるんだ。現代のわれわれに、どちらの立場がより大切か、言うまでもないね。
- なるほど。。 なんだか、いろいろ揉め事が多い、今日の国際社会のことを言っているようですね。
- そうだね。いずれにしても、いろんな文化や価値観が乱立する今日の世界で、自分と彼らは違う、とだけ言っていたのでは、何も解決しないね。逆に、寛容などといって、ただ違いを許容するだけでもどうかと思う。
ソフィア的に、いろいろと議論をし、お互いに理解を深めること、これは、君のいうように、国際情勢をめぐっては、とても大事なことだね。
- うーん、そう考えると、世界を救うのはソフィア的精神のような気がしてきましたね。
- まあ、それはちょっと大げさかもしれないが。。 ところで、ロゴスとソフィアという意味では、もうひとつ別の観点もある。
それは、ロゴスだけでは、どうしても救われない人間が、社会の中にはでてくるということだ。或いは、さっきも言ったように、ロゴスだけでは説明できない、こころの襞ともいうべき部分だって、あるんだ。それが人間というものだ。でも、彼らは、ロゴス的論理から言えば、排除されてしまう。では、彼らを救うのは何か? それが文学であり、芸術なのではないか。
しかも、人間は、ロゴスだけでできているんじゃない。 まあ、百歩譲って、人間社会はロゴスで成立可能だとしよう。 だが、ロゴス的な論理だけで社会が動いているとすれば、何かこう、息苦しいというか、味気ないような気がしないかい?
- そうですね。。疲れそうです。 なにか、癒しが欲しくなりそう。
- うん、高橋氏によれば、ロゴスだけでは人間の心は荒廃する、というのが神秘学的な考え方だが、まさに君の今言ったことが、それを裏付けているね。
また、例えば、ゲーテの「ファウスト」には、以下のようなファウスト博士の独白がある。
法律学も、医学も、
むだとは知りつつ神学まで、
営々辛苦、究めつくした。
その結果はどうかといえば、
昔に比べて少しも利口になってはおらぬ。(中略)
なるほど己は、そこらの医者や学者、
三百代言、坊主などという、いい気な手合いよりは賢いし、
要らざる迷い、疑いも知らず、
地獄や悪魔も恐いとは思わぬが―
そのかわりには、生きるたのしみというものが、全くなくなってしまった。」(高橋義孝訳)
お勉強ばかりしていたんじゃ、人生つまらないってことだねぇ。
次のような文もあるね。
天地創造の日以来、奇妙なことをやり続けています。
いっそあなたがあいつらに天の光の照り返しをおやりにならなかったら、
あいつらも、もう少しましな暮らしができたかもしれません。
あいつらはその照り返しを理性と呼んで、どんなけだものよりも、
もっとけだものらしく振舞うためにその理性を利用しているんです。」(高橋義孝訳)
要するに、私は理性至上主義ってものが好きじゃないんだ。だが、かといって、私はロゴスを否定しているんじゃない。 ロゴス的な部分でなく、最初に君が言った、パトス的な部分、或いは神秘学的に言えば、ソフィア的な感覚も刺激することで、人間は全体としてバランスがとれて、生命力を維持できる。 つまり、バランスが大事なんだ。
まあ、神秘学というのは結構怪しい部分も多いが、こころと肉体だけで人間を捕らえてはいけない、というのは、とても大事な指摘だと思うよ。
そして、人間の生み出す文化はロゴスだけで成立しているんじゃない、というのは、最初にふれた、ロゴスとパトスにもつながる話なんだが、まあ、話が長くなったので、それについてはまた後日ということにしておこう。
- なるほど、よく分かりました。じゃあ、先生も、ソフィア的精神で議論に参加して、健全な社会を作っていきましょうよ。
- いや、健全な社会をつくるために行動する、だなんていうのは、私の性に合わないなぁ。 社会の片隅で、社会には何の役にも立たない、非生産的な趣味にでもふけることにするよ。
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
- 作者: マイケル・サンデル
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/22
- メディア: 単行本
Michel-Ange, La Création d'Adam,
1508 - 1512, Chapelle Sixtine, Rome
2010-11-11 22:45
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