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言語、肉体、愛情 [言語・記号]

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「わたしはよく思った、思惟する権利を持たずに思惟する人があまりにも多い、と。彼らはこの権利を、思惟することが自己の救済のために不可欠であるという底の事業によってあがなったのではないのだ。」

「私の勝利は言辞によるものである。」

― ジャン・ジュネ




先日の記事で取り上げたユリイカで、竹西寛子さんが『陰翳礼讃』を引用していた文の中で、
以下のようなことを書かれていたのが、印象的だった。


言葉に対する自分の無意識の傲慢に気づき、実も心も冷え入って恐くなった時から、先人の教えにつとめて聞き入り、導かれ、日常の言葉の杜撰の積み重ねの恐さから逃げないようにして、人はそれぞれ、その人の言語生活の程度以上でもなければ以下でもないという認識にようやく達した。


こうして引用してみて、改めて、
なんと品のある、研ぎ澄まされた日本語を書くひとだろう、と感じ入った。
司馬遼太郎にも通じる日本語だ。

人はそれぞれ、その人の言語生活の程度以上でもなければ以下でもない」という言葉がとても印象的で、これがなぜか気になって、
ここ一週間ほど、人間と言語について考えていた。


まず、人間である以上、ことばは極めて重要であることはいうまでもなく、
ほとんど人間の条件ですらあるというべきか、
ことばを話さない、理解しない人間は、通常、まず人間としては扱われない。
品のある、美しい言葉を話す人は、一目置かれるし、
知性もあって、育ちもよくて、、と思ってしまう。

逆に、言葉遣いに品がないのは、いわゆるお里が知れるというやつ。
その意味では、その話す言葉で、人は意識するしないにかかわらず、
社会におけるランク付けがなされているとも言える。

つまり、その人の言語レベルによって、その人は他者から評価される。
少なくとも社会的には、そのひとの言語が、そのひと自身とイコールであるということだ。

どれだけ頭脳が明晰だったり、高邁・深遠な思想を持った、高潔な人格者だったりしても、
話す言葉が下品だったり、気の利いたことひとついえないようでは、
人からは決していいイメージは持ってもらえない。


ところで最近私は久々に、ジャン・ジュネを読み返している。
文学作品、或いは物語としての面白さというよりも、
言語による人間の救済、そして言語というものが発揮する力の強さ、
そういったものを強く感じさせられる。
そういうことを感じさせる作家って、あまりいない。私の知る限りでは。


さて、こうしてみると、やはり言語の重要性というのがわかるし、
その人の言語=その人自身、だとすら思えてくる。

でも、だから言語がその人の全てかといえば、
決してそうではないんじゃないかなー、と思う。
他者からのその人に対する最も重要な評価基準でこそあるけれども、
ことばでは表現できないけれど、伝わることもある、
という結論に達した。


私が思いつく範囲で、それは3つある。

1、スポーツ。

2、舞踊、ダンスなどの、肉体を使った芸術表現。

3、愛情表現


これらも、何かを「語る」「表現する」という時点で、言語ではないか、
などと、あげ足を取る人もいるだろうけれど、そんなことはひとまず措く。

まあ、1と2に関してはいわずもがななので、割愛するとして
3について、だけれど

例えば、ひとはどうして、ことばをまだ話すことの出来ない赤ん坊や、
動物などを、無条件に愛することができるのだろうか。
逆に、どうして、彼らは愛されるのか。

これひとつとっても、少なくとも「愛情」という面においては、
必ずしも言語が存在しなくてもいいことになる。
つまり、愛情は言語の域を超越している、と私は思う。 

どうして自分はこの人を愛するのか。 この犬を愛するのか。
そんなの言葉で説明できない。
(逆に、どうして嫌いなのかというのは、案外、説明できるけれども)

言語とは、一対一の対応関係を持った、ひとつの秩序だった体系である。 
直感ではない。
そして直感はことばで表現できる領域の外にあると思う。

つまり、愛情というのは、ロジカルな領域ではなく、
もっと直感的なレベルの話なんだと思う。
人を愛することや、物を偏愛することは、理屈ではないということだ。

結婚によくいろいろ条件を出す人がいるけれど、
人を好きになるのに、どうして条件がいるんだろう。
この人はこういった条件を満たしている、よし、好きになろう、
ってことなんだろーか。

私には理解できない。

人を好きになるのは、クルマや家を買うのとは違うのだ。 絶対に。


これは、愛情についてではないけれど、
小林秀雄が以下のように言っている。


解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。

(小林秀雄 「無常という事」)



これは、私が思うに、だけど、本当に美しいものは、
言葉では表現できないし、するべきでもないんだ、ということだと思う。


でも、だからといって、私は決して言語を軽んじ、直感や本能の方を重視する、
というわけではない。
言語/意味体系が崩壊するとき、人間は狂気に陥るのだから
言語がやはり人間にとって本質的ななにかであるのは間違いない。
これについてはこれ以上立ち入るとややこしくなるので、このへんにしておくけれど

しかし、言語/意味体系を保持しながら、同時に、それとは別の座標軸というか、
言語を介さない領域もあっていいのではないか。

例えばそのひとつとして、肉体の体系というのを持つこともできるのではないか。
でなければ、人間にとっての肉体の意味は、
この得がたき人身を得たことの意味はなんなんだ、と思ってしまう。

たとえば果たして、ことばで愛情が伝わるものだろうか。
私はこれに同意できるようなできないような、なのである。

ことばで表現された愛情なんてうそ臭い、と思う反面、
ことばで愛情を表現されて嬉しいのも事実。。

別に、「好き」とか「愛している」とか、そういうことだけではなくて、たとえば
親戚のおばちゃんに久々にあったときなど、わかれぎわに、
今日はあえてよかったよ、などと言われたりすると、私は愛されていることを実感し、
むしょうに泣けてしまう。


でも、ことば以外で表現されたもののほうが、よりじんとくることもある。

例えば、手をぎゅっと握ったときに、握り返されたとき。
自分を見る目に、そして自分にむけられた笑顔に、深い愛情が感じられたとき。
(いずれも、必ずしもこいびと同士ではないよ)


って、なんだか書いてて恥ずかしくなってきた!

やめよ。


いずれにしても、人間は、言語と肉体、
両方なければいけない、どうしても。

それはたぶん、精神と肉体、ではなくて、言語と肉体でなければならず、
常にそれらはバランスをとっていかなければいけないのだ。

そして、愛情とは言語を超越したものだろうと。
それだけは確信してる。





「ただお前があの娘を選んだからには、何か立派な理由があってだろうね。」

「だって伯母さん、ぼくがアリサを好きなのは、何も選んだためではないんですよ。どんな理由だなんて、考えさえもしなかったんです。」

(ジイド 「狭き門」)







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